〝地蔵〟ほどの〝ソレ〟

スピチリュアル, メソッド, 哲学, 工藤シンクの世界, 文化

地蔵と幽霊と…311の大震災、惨劇の現場で

2011年に起こった3.11の東日本大震災、津波の惨劇のあったあの現場では『幽霊が出る』ことが多発したそうです。
それを知ったある高僧が被災地に地蔵を何十体か寄贈し、幽霊は出なくなった、、、ということがあったそうです。

この話について僕は考えさせられました。

(『幽霊とは何なのか? 』はさておき…)
津波で全てが滅茶苦茶になり大切な人や物が失われた現場で、亡くなった方々の念や失意に生きる人々の想いが幽霊をうんだということは、わかる気がしますよね。
〝地蔵〟という存在によりそれが和らぎ、幽霊がでなくなったということも、わかる気がしますよね。

……いいお話です。

…………。

、、、しかし、この話を聞いて、僕は少々カチンときたのです。

 

 軽くみていた〝地蔵〟の世界

僕が引っかかった理由のひとつは『偶像ですます』という浅はかさ。

僕はこれまでの知識・経験・感覚を総じて、人間の心の痛みは本質的には『自分と向き合うこと』でしか消化(昇華)出来ないと確信しています。(〝絶望道楽〟もご参照ください)
それを偶像や宗教依存的な処置ですませ、本質的な解消を『先送りにしてしまう』ということに憤りを感じたのです。

 

もうひとつの理由は『地蔵ですます』という創造性のなさ。

僕にとって地蔵は『古臭く野暮ったいもの』というイメージがあり、そこにはオリジナリティのかけらも感じません。
この話を聞いたとき、僕の善意とアーティスト気質に「地蔵に代わる、もっと素晴らしい〝何か〟をつくりだし、みんなを救いたい!」という衝動がはしったのです。
現場に赴き、地蔵よりも素敵な、みなさんの心を昇華しうるオリジナルな〝何か〟を創造したい! と。

 

そのようなわけで、僕は地蔵ですませてしまった高僧や現場の方々に、そして〝地蔵〟という存在自体にすら少し憤りを感じたわけですが、、、

、、、しかし、、、そう感じた瞬間、、、、、、、、同時に僕はとてつもない反省と罪悪感に襲われたのです!!

「僕こそなんと浅はかで、驕り昂りに満ちているのだ!」と。

幽霊が出るほどの災害の現場は滅茶苦茶であり、計り知れないほどの痛みが渦巻いていたことでしょう。
それほどの現場でみなの心を癒し、幽霊を昇華するほどの〝何か〟を創造することが出来るでしょうか? 、、、おそらく出来ないじゃないか。
もし僕が自身の最高の創造物をつくりえたとしても、、、〝ソレ〟に対する想いや判断は現場の人々や幽霊たちが決めること。
無名であり未熟であり、現場との繋がりもない僕の創りあげる〝ソレ〟に、人々は何を感じてくれるのだろう? …それどころか、見向きもしてくれないではないか。
現場は『それどころではない』状態であり、僕の創造性や情熱、慈しみなどは余計なお世話なんです。

これはアートやクリエイティブの本質的なお話ともいえますが、同時に、いち作品としての〝創造性〟ですむようなお話ではないのです。
例えば、多くの人々に[ピカソの絵]の意味や意義を持たせているのは、そのビジュアルが持つエネルギーはもちろん、〝ピカソ〟というアーティストの名声やその絵の価格という情報をもってして。

逆にいえば、そのような現場でみなの心を癒すにおいて、、、〝地蔵〟以上の最適解が他にあるのか? ということなんです。

 

〝地蔵〟が〝ソレ〟であるために

東北の現場で『地蔵には幽霊を消す力があった』というシンプルさは、とてつもない深みを内包しています。
誰もが『地蔵で幽霊が消える』ことがなんとなくでも腑に落ちること自体が〝答え〟といえるほどに。

例えばニューヨークでそのような災害があったとして、そこに地蔵を寄贈してもゴーストは消えないでしょう。
逆に東北の現場にキリスト教のエンジェル像を並べたところで、幽霊が消えることはないでしょう。
とはいえ仰々しい観音像や大仏を置いたところで、幽霊が消えることはきっとないのです。
もちろん、ありがたい説教やお金でどうこうできるようなことでもない。

それが可能なのは、、、老若男女だれもがほっこりと受け入れられるフォルムや存在感、そして民族としての伝承と認知度をもつ〝地蔵〟だからこそなんです。

地蔵が即効性をもって多くの日本人の魂の痛みを和らげる力を発揮するのは、そのシンプルで親しみやすいビジュアルと相まって、日本人に脈々と語り継がれてきた昔話などの伝承と文化的な認知度があってこそ。
右脳と左脳の両方に、DNAレベルで響く〝何か〟があってこそなのです。

日本人の万人に説明なくとも響く癒しの力。
それは右脳と左脳の、感覚と叡智の、、、多くの積み重ねの集大成による〝何か〟。

強烈な何かでもなく、押し付けられた何かでもなく、むしろあやふやで、、、とはいえしっかりと認知され、意識下に植え付けられ、定型もなく存在するシンボル。

それこそが〝地蔵〟が持つ〝何か〟ということなんだと。

 

〝何か〟はどこからやってくる?

そのことに気づいた僕は、さらに自分の浅はかさと向き合わされました。

僕は俗物的な大衆的文化や、画一化された左脳教育などを毛嫌いしているフシがありました。
大きい括りでいえば[宗教]や[資本主義競争社会]、[学校教育]や[マスメディア]というようなことにまで。
本質的な素晴らしさはもちろんわかるのですが、形骸化され惰性化されたその先に、、、それらが逆に限界や柵となり、万人の感覚や意識の成長を阻害する弊害にすら成り果てる、、、という側面も多分に感じるからです。
逆にいえば、思考を放棄し、上からいわれたことや常識や価値観を鵜呑みにするだけの人々を毛嫌いしていたのかもしれません。

だからこそ『みなの柵を外し世界観を拡張する』という情熱に突き動かされ表現活動をし、現実に熊本にエコビレッジ サイハテという新しい生き方の共同体を創造し、このように文章を綴っては発信し啓発活動をし続けてきたのですから。

 

、、、しかし、、、それこそがなんたる思い上がりだと思い知らされたのです。

僕が毛嫌いする形骸化されたような物事までもがあるからこそ、僕には『活動をする動機』が産まれ、そもそも『活動が出来る』ということ。
例えば僕が地蔵に代わる〝何か〟を作ろうにも木を削る[ノミ]や絵を描くための[画材]を使うわけですが、それら道具ひとつにも人類何万年の発見の積み重ねや、職人の技術と向上、生産や流通販売などの仕組みと発展があってこそ。

僕が『何かを閃き』『何かをする』ということは、その上にしかなく、それらを否定することはできないのです。

縄文時代がなければ今はないし、戦争がなければ今はない。
あの日あの時のあの出来事がなければ、今はない。

どんな小さなことから、どんな大きなことまでも、、、全ての積み重ねと連鎖がなければ、今はないし、今の僕はいないんです。

過去も未来も全てが相関していて、完璧に然るべきようでしかなく、、、今の僕だって、その中のほんの[ひとつ]に過ぎないじゃないか、、、と。

 

〝地蔵〟ほどの〝何か〟は、つくれる

〝地蔵〟により自分の小ささと浅はかさを痛感させられた僕ですが、とすれば、もうひとつの希望と可能性も浮かびあがりました。

それは『僕にも〝地蔵〟と同じほどのものをつくることができる』という可能性と未来です。
その探求が今において、僕の人生最大のテーマのひとつにまでなったのです。

これは[アート作品]という狭い括りだけのことにとどまりません。
多くの人々が認め悦ぶ新しい〝何か〟をつくり、意識しないほどの意識下に浸透させることは、不可能ではない。

そしてそれは、万人の右脳と左脳の両方に響く〝何か〟だということ。
感覚レベルで最高の〝何か〟を、情報論理レベルで最高のものとして具体的に伝播させること。

万人が『いい』と感じるものを、万人が『いい』と信じるに値する情報に落とし込むこと。
より多くの人のために、それを積み重ね続けていくこと。

これは『より多くの人が求めるものを自分が知り、自分が発する〝ソレ〟をより多くの人が求める』ということでもあり、ビジネス的にいえばマーケティングやブランディングそのものであり、SNSでいえばより多くの『いいね』を集めるみたいなことなんですけれど。

簡単にいっていますが、それはなかなかの〝高み〟ですよね。

『それを目指す』ことは『自分を高め続ける』ことと同意義ですので、みなさんにも悪くない目標設定だとも確信しています。

 

が、、、しかし、同時に僕には『そんな人間になりたいのか?』という疑問もまた並走するのです。
みなさんはどうですか?

『死ぬまで〝ただの自分〟でいいじゃないか』というのもまた、僕の願いですから。
みなさんはどうですか?

ただ、、、死ぬまで〝ただの自分〟でいることと〝地蔵〟であることは、ある意味同意義ですらある気もするのです。

ただそこにあるだけでいい、だれかにとってのただの〝地蔵〟のごとくの、ただの〝自分〟でもいい。
多くに祀られるような、多くにとっての素晴らしき〝地蔵〟のごとくの、素晴らしき〝自分〟でもいい。

答えは、、、高めるも高めないもどちらにしても、、、『〝ただの自分〟をやり続けた結果』でしかないという、ごく当たり前のことに落ち着きそうですね。

 

 

あわせて読みたい

◉ 僕はヨガを知ったのち、全てがヨガであるという本質に気づき、それらに捉われる必要のなさにも気がつきましたが、、、結局のところは若い頃にヨガを教わり、実践したから気付いたわけで、、、〝ソレ〟を知り味わわなければ、〝ソレ〟に到達し得なかったといういい例です。

◉ 僕はアクロビを知ったのち、全てがマクロビであるという本質に気づき、それらに捉われる必要のなさにも気がつきましたが、、、結局のところは若い頃にマクロビを教わり、実践したから気付いたわけで、、、〝ソレ〟を知り味わわなければ、〝ソレ〟に到達し得なかったといういい例です。

 

関連記事一覧