〝絶望道楽〟のススメ

〝絶望道楽〟

僕の趣味のひとつに〝絶望道楽〟があります。

簡単にいえば『ネガティヴをとことん味わう』という内面遊びで、万人にオススメしたい反目、全くオススメできない悪趣味ともいえます。
大きな自己進展を促す反面、タブーにおもむく行為ともいえ、それはある種の自己崩壊とさえいえますから。

とはいえ前向きな自己崩壊こそが成長の糧ともいえますので、ここに紹介します。

〝絶望道楽〟とは

〝絶望道楽〟は自己内面のなかで『世界をネガティブチューニングで味わい尽くす』だけの道楽です。

〝ネガティヴ〟といえば「恐れ」「不安」「悲しみ」「寂しさ」「怯え」「怒り」「嫉妬」「執着」「羞恥心」「劣等感」「痛み」などですが、それらをあえて味わうわけです。
『ネガティブを前向きに味わう』ということは、『普段は目を背けている物事と向き合う』ことともいえるかとおもいます。

そのためにはなるべく心身の深みに入り込めることが大切ですので、心配や雑念の生じない環境でひとり静かに行うのが好ましいです。
特に心身の高ぶる満月・新月にあわせるのもオススメです。

『ネガティブに満たされる』ということは身悶えするような状態ともなりますから、寝る前の布団の中などで横になって行うのがよいでしょう。
どんな絶望に打ちひしがれてもそのまま寝てしまえばいいわけですし、起きてみれば『そこまでは悪くはない日常』が拡がっているわけですから、必ず救われます。

〝絶望〟から一転、、、現実は少なからず〝絶望〟よりは『悪くない』のですから、改めて日常の安堵や素晴らしさに気づけるのも〝絶望道楽〟の前向きな効果のひとつです。

〝ネガティブ〟と向き合う

さて、〝ネガティブ〟を味わいつくすといっても、そこへ前向きにチューニングしていくのはなかなか難しいものです。
そもそもそのような領域が〝ネガティブ〟とされるのは〝不快(ストレス)〟を伴うからであり、目を背けたいのは当然のことですから。
そしてそもそも、あえて〝不快〟にむかうこと自体が生理的にも不自然なベクトルなのですから。

逆にいえば、まさに『野性にあらがえる』人間こそが味わえるクリエイティブな道楽、それが〝絶望道楽〟ともいえましょう。

 

とっかかりとしては最近おこったネガティヴな感情や出来事にフォーカスしたり、未来に起こりうる最低なシチュエーションを夢想することからはじめるのが手軽です。

ネガティブは心の味わいですので、胸に手をあてるのも導入に大きな促しをあたえてくれます。
やましいことがないかどうか『胸に手を当てて考えてみろ』とはいいますが、まさにそれです。

怖かったこと、イラっとしたこと、悲しかったと、恥ずかしかったことなど、、、
記憶の追体験でもいいですし、例えば怖いものに囲まれている状況をビジョンしてもいいですし、大切なものが失われることなどを想像してもいいでしょう。

そうしてネガティブ領域にチューニングし、向き合っていくと、、、当然ながら辛く嫌な気分に苛まれます。

本来人間はそこから目を背け、逃げ、言い訳を考え、何かのせいにし、蓋をし、自分を保とうとするものです。
しかしこれはあくまで〝道楽〟ですから、嫌なことから逃げる必要も、言い訳を考える必要もありません。
目を背けたくなるようなモノゴトやビジョンを、過去の体験や未来のリスクを、ただそのまま受け入れ味わっていくのです。

ネガティブのマインドフルネスとでもいうのでしょうか?

〝絶望道楽〟ではそれらのことを言葉や理屈として解釈するのではなく、体感的に、心身の状態や情緒として丁寧に味わうことこそが大切です。
モノゴトを理屈で追及していくことも導入にはなりますが、[言葉]はあくまで限定的に作用してしまい、ともすると善悪的なジャッジなどが紐づいてしまいます。

〝絶望道楽〟においては、そのようなことこそがどうでもいいのです。

そうしていくと、、、擬似体験としてでもそのモノゴトに向き合い味わいを深めると、拒絶していたモノゴトに耐性ができます。
目を背けたいほどの悲惨なホラー映画でも、何度も観ていたらなんでもなくなり、むしろ飽き飽きしてくるように。

『ネガティブに耐性ができる』、これもひとつの成長といえます。

もちろん『これ以上は!』という領域もあるでしょうから、その時は無理なくさじ加減を和らげ、次の機会にとっておきましょう。

 

〝ネガティブ〟の根源

ここからが〝絶望道楽〟の大事なポイントです。

逃げも攻めもせずに、不快な領域をただ味わう、、、その精度で〝ネガティブ〟を味わうと、特定の感情で心拍や呼吸・血流の変化があったり、筋肉や内臓のどこかに強張りができたり、姿勢がゆがんだり、古傷が傷むというようなことに気がつきます。

心と身体はひとつであり相関していますので、人間は怒りを感じる時は眉間に力が入り腑が煮え、恐怖しているときは心身がが萎縮し、緊張している時は肩に力が入り胃が縮こまる、、、というような反応が必ず紐づいているからです。

まずは、それを味わうことが全てです。

そのような変化を知れば、それらを客観できるようになってきます。
それらを客観できるということは、それらをコントロールできるということに繋がります。
ネガティブ系の心身反応はえてして『力み』や『萎縮』などの緊張収縮が紐づいていますから、『緩ませる』ことができるというわけです。

その心身コントロールは、現実でも同じようやシチェーションがあった時にも応用がききます。
つまり、自分が抱いていた「恐れ」「不安」「悲しみ」「寂しさ」「怯え」「怒り」「嫉妬」「執着」「羞恥心」「劣等感」「痛み」に対して力んだり萎縮せずにいられることを知るのです。

そうなってしまえばむしろ、『なんでそのようなどうでもいいことに縛られていたのだろう?』とすら感じるようになってくることでしょう。

自分にとって強烈に〝ネガティブ〟でしかなかったモノゴトはコントロールが効く、、、つまり『自分だけが抱く幻想に過ぎなかった』と気付くからです。
全てのモノゴトはただ起こり、ただ存在するだけなのに、、、それをそう感じ、そう思い、特別視しているのは自分の意識の色付けでしかないということに気付くのです。

全ての〝ネガティブ〟はただの自分の心身のクセでしかなかった、、、と。

もう一度いうならば、全ての物事は万物に等価に『ただある』だけであり、それを『そう感じる』のは自分だけであり、確かに全てにおいての切り取り方や受け取り方は十人十色、千差万別なのですから、、、

 

『〝ネガティブ〟の根源』の根源

では、なぜ自分はそこに対してネガティブな、特別な感情にとらわれているのか?

これからが〝絶望道楽〟の、道楽の極み。

〝絶望道楽〟でおもしろいのは、味わった自分の心身の『力み』や『萎縮』が意外にも何年ものあいだそうだったことに気付くことです。
それらは恐ろしいまでに〝自分〟を形成していて、その蓄積がまさに自分の人生のクセとなり、リミットやループやパターンを産み、自分の世界観の全てを成しているといっても過言ではないことに気付きます。

そしてそれらを形成したのは、忘れるほどの過去にあったことを思い出すのです。
産まれたばかりの赤ちゃんはまっさらで、何の色付けもなかったはず。
様々な体験により様々な〝思い込み〟が染みつき、その連鎖が枝葉のように〝自分〟を形成してきたのは間違いありませんよね。

一般的にいえば〝トラウマ〟というようなことでしょうか。

それと向き合うことこそが〝絶望道楽〟の最大の道楽です。

例えば、

『私は年上の男性と話しているときに、怯えを感じ、左肩裏の筋肉が強張るな、、、』というようなことに気づいたとします。
では、その左肩裏の筋肉の強張りに意識をむけ、その強張りを緩めてみましょう。
意外にもそれは難しく、、、緩め方がわからなかったりするかもしれません。
なぜならそのような強張りは、何年もの間そうであった可能性が高いからです。
そのような時は無理に緩めようともせず、素直にその強張りを許し受け入れてみましょう。

力みを緩めるのは『緩めようとする』力ではなく『意識すらしない』領域ですから、その許容こそが『緩める』きっかけとなります。

そして許し受け入れてしまえば、それを客観できるようになるのです。

そうしていくと、忘れるほどに力み続けていたきっかけとなる〝何か〟に行き当たっていきます、、、その力みが生まれた時の感覚を追体験するかのように。

ファーストインパクト、はじまりのショック

心と身体はひとつであり相関しているということは、『その力み』が産まれたのは『その心』が産まれた時と同じはずです。

〝絶望道楽〟を繰り返していると、手近なネガティブが消化されていく先に、その根源となるショックまでもが紐解かれ思い出されるようになります。
忘れかけていた、、、むしろ忘れようと蓋をしていたレベルの、過去のショックです。

 

そうなる体験、それほどのショックがあった体験は必ずあります。

『17歳の時の彼女に言われたあのひとこと』のショック、、、

『12歳の時に友達に裏切られた』ショック、、、

『8歳の時に車にひかれた』ショック、、、

というようなことが。

 

思い返してみれば、「そんなことをずっと引きずっていたのか」と笑ってしまうようなことかもしれません。

怖かったあの出来事も、受け入れがたかったあの最低な人間模様も、、、大人になった今からすれば、意外な側面や別の事情がみえたり、まだ未熟であった自分のことにも気付けたりします。
当時の大ショック、、、案外にそれらは、今にしてみれば可愛げのある出来事だったりするのです。

それに気付いてしまえば、もうそのネガティブはクリアです。

そうしていく先、、、自分を形成する礎のほとんどが〝幼少期〟であったことにも気付いていくでしょう。
産まれたばかりのまっさらな人間が、ひとつひとつの原体験として味わい吸収しまくっていた時期なのですから、それはそうなのです。

例えば、

『5歳の時に犬に吠えられた』ショック

『3歳の時にみた怖い絵』のショック

『2歳の時に転んで泣いていたのに、お母さんがすぐにきてくれなかった』ショック

というように。

当時は『それが全て』でした。
しかし今は成長しました、『それが全てではない』と知るほどに。

それが全てです。

 

〝人生道楽〟

〝絶望道楽〟という世界、いかがだったでしょうか。

〝絶望〟にわざわざ踏み込むというある種の高尚な趣味であり、極めて悪趣味ともいえるものですが、自己をクリアにし成長を促すひとつの愉しみとしてオススメの道楽です。

 

〝絶望〟……それを味わった人間は強く、成功者の多くが大きな絶望を乗り越えてきたという事実も見逃すことはできません。

僕らが貴重な時間とお金を割いてまでドラマや映画などを楽しむのも、ある意味では『〝絶望〟を仮想で味わう』という道楽のひとつといえるかもしれません。
何もないドラマはつまらないですし、結局のところ、ネガティブを味わうほどに、僕らは相応のポジティブを味わえるのですから。

〝陰極まって陽となる〟という言葉もありますが、最低を知ると、転じてそれは同じほど『最高!』でもあったと知れるものです。

 

とはいえ、わざわざネガティブを味わう必要も乗り越える必要もないですとも。

ネガティブとはいえ、それは〝自己〟を形成する大切な個性やアイデンティティ……育んで深みを増すのもまた人生。

 

全ては然るべきように、相応に、あるがままに。

全ては味わい深い、ただそれぞれの〝人生道楽〟なのですから。

 

 

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