新時代の世界のリーダーは日本人(2)

人間学, 工藤シンクの世界, 新世界

『これからの時代の世界を牽引するリーダーは日本人』ということについて、続きとなります。

◉ まずはその(1)をお読みください。

リーダーとは〝導く人〟のこと

これまでの時代は、あらゆる組織にはリーダーが存在して然りでした。

情報も物資もテクノロジーも乏しい時代…それこそインターネットもグローバルな繋がりもない時代には、的確な叡智と判断力を持つ〝リーダー〟の存在と明確なシステムが必須でした。
リーダーがいて部下がいてその下がいて……と、下に連なるトップダウン三角構造、ヒエラルキー型組織が常識でしたし、それが効率的だったことは間違いありません。
むしろ社会システム自体がその構造に準じて進化してきたともいえますし、事実、[資本主義競争社会]システムは、お金というモチベーションや競争原理の切磋琢磨により様々な物事を大幅にアップデートさせ続ける大発明でした。

しかし、社会文化やテクノロジーがひとつの成熟をみせた昨今、その限界や歪みも露わになってきたのもまた事実。
環境破壊や戦争などもその一端ですし、格差がうまれて然りの構造ですし、ともすれば『仕組みを維持するために仕事や競争をし続ける』というような惰性ともいえる状態が〝本当の幸せ〟とは違う作用をみせる側面は、みなさんもご存知の通りです。

 

日本人の精神性

個人的には[資本主義競争社会]の構図は、チームで攻め勝ち続けることで生存を維持するような、西洋的な狩猟系文化や気候風土に適した構造の気がしています。
東洋的な農耕系文化……日本のような海山と四季に恵まれた島で、日本人のような『和を尊ぶ』民族には、『他者と競争をし続ける』というマインドセットはそもそも適していなかったのではないかと。
現状の日本に引き篭もりや自殺者が多いのもそこに一因があるとおもいますし、それはある種の健全さとすらいえる気もするのです。
現状の社会システムに適していないということは、そこにモチベーションや生き甲斐を見出せないということでもありますから。

日本と日本人はある種の限界に達しているのだとおもいますし、それは決して弱者や敗者という表現でまとめることではないのだとおもいます。

ここに、近代化に向かう日本をみたミヒャエル・エンデの言葉をそえます。

『アジアの思考法がおのずと発展していった場合の結末は、ヨーロッパ思考の結末とは違うところに向かったはずです。だから日本は工業化社会に向かうにあたって、固有の文化の発展を一度断ち切らなければならなかった、そういう運命を担いました…

…従来の古い美徳観念が、近代的工業社会の原理と混ざり合ったのです。連帯意識一般や領主に対する忠誠は、今日では企業に捧げられています。しかし、これはこの先、葛藤を生むと思います。この二つは、本来相容れないものです。

これは日本で近い将来に十分ありうることですが、経済が少し傾けば、そうすればいわば全国民的な神経虚脱症を引き起こしてしまうのではないでしょうか。個々の人間が、近代工業社会の過度の要求にまいってしまうと思うのです。』

まさにそういうことなのではないでしょうか。

私たちは[資本主義競争社会]の発展の渦中に当たり前のように産まれ育ち、本来あるべき大切な何かを見失っているのではないか?

しかし、だからこそ僕は現状の[資本主義競争社会]が限界に達したときにこそ、日本人が目覚め開花する可能性を感じているのです。

これが僕の期待する日本人の可能性であり、世界を牽引する新しい指針となれる可能性です。

『リーダーだから偉い』とか『誰が上、誰が下』ということではない、新しい世界のリーダー像……それはやはり『この豊かな星で、助けあい創造しあい、それで大丈夫だということをみせる』という、それだけのことなのじゃないかと想うのです。

 

その(3)へ続きます。

あわせて読みたい

◉ 【新時代の世界のリーダーは日本人(1)】

◉ 【新時代の世界のリーダーは日本人(3)】

 

 

関連記事一覧