〝言葉〟の意味と、意味のなさ

人間は意識の意識の高い野性であろう

まず、『〝言葉〟に意味などない!』と言い切ってしまいます!

……え? 言葉に意味がないだなんて⁉︎
むしろ[言葉]こそが[意味]そのものでは?

辞書を引いてみましょう。

[言葉]
意味を表すため、口で言ったり字に書いたりしたもの。

 

そうですよね、やはり[言葉]こそが[意味]そのものです。

しかしよく考えてみてください、、、『意味を表すため…』ということは、別のところに本当の意味が存在し、それをカタチにするために[言葉]があてがわれているということですよね?
本当の意味…真意は[言葉]以外のどこかにあるということになりませんか?

 

この世界に溢れる膨大なモノゴト…その[意味]を固め、他者と共有するために産まれた発音や綴り、、、人類の偉大な発明のひとつが[言葉]です。
このコミュニケーション方法の発展により、野性だった人間は徐々に多くの他者と[意味]を摺り合わせ、共有できるようになりました。
共有認識…つまり〝概念〟というものを創造し続けて。

今や[言葉]は人類のコミュニケーションツールのメインストリームです。

聖書にも『はじめに言葉ありき』と綴られているほどに。

では、話をすすめます。

  

さて、今、僕の目の前には《赤い花》があります。
みなさんにもお見せしたいです。

みなさんの頭には《赤い花》がイメージされたでしょうか?
どんな花ですか?
しかし歯がゆいことに、僕の目の前にあるこの花と全く同じ《赤い花》をイメージできた人は一人もいないはずです。
みなさんの想像する《赤い花》はそれぞれカタチも違えば、その赤さも十人十色でしょう。
[花]という単語から連想されるもの、[赤]という単語からイメージされる色味は…それこそ十人十色どころか75億人75億色。

この《赤い花》についてより深くみなさんにお伝えするために、一冊の本として[言葉]をならべることも可能です。

それとも5・7・5の言葉を並べ、俳句でお伝えしたほうがこの情緒までが伝わるでしょうか?

しかしそうしてみたところで、今、僕の目の前にあるこの《赤い花》と全く同じものをみなさんと共有することはできないでしょう。

これが[言葉]による情報伝達です。

僕らはこんな時代になってなお、[言葉]というなかなか不器用な情報伝達手段を主軸にしているんですよね。

 

ある研究機関によれば、[言葉]によって伝わる情報量は本質の7%程度だそうです。
最近はインターネットによる情報伝達も盛んですが、ウェブマーケティングの世界では『文字だけに比べて映像のもつ情報量は5000倍』という計算もなされています。
いわせてもらえば、そういった解釈自体が本当の〝意味〟を履き違えている気もしますが。

どちらにせよ情報伝達量は視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚…五感を添えることによりその精度を格段に上げていくわけです。
これからVR(バーチャルリアリティー)の時代が到来しますので、五感総動員により情報精度は極限まで高まっていくでしょう。

その先、神経回路に直接情報を送り、より精度の高い……

………ちょっと待ってください、僕らはいったい何をやりとりしたいんでしたっけ!?

 一度、[言葉]について話をもどしましょう。

  ∴ 

『はじめに言葉ありき』とは言いますが、もちろん人類だって最初から[言葉]を持っていたわけではありませんよね。

ウホウホ!いっていたのかは知る由もありませんが…現代よりだいぶ〝野性〟的であったろう古代人類は、道具を使いはじめ、服を纏いはじめ、言葉を使いだした頃がありました。
モノゴトに名前をつけ、[言葉]をつくりはじめる…そんな時期を通過してきたことは間違いないんです。

 

つまりこんな感じです、

見上げると輝くあれは……〝タイヨウ?〟…「あるある、わかるわかる、〝タイヨウ〟!」「タイヨウ!」「タイヨウ!」
〝タイヨウ〟を味わってるこの感じ…〝マブシイ?〟…「あるある、わかるわかる、〝マブシイ〟!」「マブシイ!」「マブシイ!」
こんな風に、自分以外の他者と共有しうる〝何か〟の共感から言葉は産まれ育っていったはずですよね。

シンボリックな〝何か〟をみんなで共有するクリエイティブです。

 

時は進み…紀元前400年、ギリシャ。
野性人類の文化もある程度成熟し、そんななかで古代ギリシャの知識人たちは『名付けること』…すなわち『概念化』をクリエイティブな愉しみとして、あれこれワイワイやっていたことでしょう。

そこにソクラテスがやってきてこう言いました

『お前たちのやってることは素晴らしいが…気づいてた? それを味わってのは[自分]ってヤツなんだぜっ』

みんなぶっ飛びました、、、目の前のモノゴトをあれこれ言ってはみたものの、ソレを味わっているのが[自分]ということを気にもしていなかったんです。自分という感覚はあったのかもしれませんが、当時は[自分]という概念…共有認識がまだなかった。

いわれてみれば、確かにこの世界を味わっているのは[自分]というヤツじゃないか!

赤ちゃんはまるで野性のように目の前のモノゴトを味わっているだけですが…いつしか自分という存在を認識します。[自意識]の目覚めですね。まさにソレは人類が概念として[自分]を持った瞬間でした。

 

さらにソクラテスは続けました。

『な、あるだろ?[自分]というヤツが。さらにもっともっと[自分]を味わってみなよ…その先にあるだろ?……[魂]といヤツがっ!』

みんなはさらなる[自分]を探ってみました…そして気づいたんです…『ある!』『ある!』…『[魂]…ある!』

[魂]という概念の誕生です!
いまでこそ漫画などでも当たり前な存在、世間話レベルで語られる[魂]ですが、人類はこの時に[魂]を知りました。

名付けブーム(哲学ブーム)の中に投じられた、この新たな世界観。
当時の統治者にしてみれば、人民それぞれが自意識に目覚め[魂]に準じて生きることには不都合があったのかもしれませんね。
あまりにもヤバすぎるというわけで…ソクラテスは処刑されました。

 

次に登場したのがソクラテスの弟子のプラトンです。

プラトンはこう言いました

『師匠は素晴らしかった、たしかに[魂]はある…でも、そんなモノなくね?』

またみんなぶっ飛びました。

『ない!』…『[魂]なんて………ない!』

たしかにそうです、[魂]なんてのは自己認識の極致でしかなく…すなわち『ない!』ことに気付いたんです。

 

あるのにないという…この概念は、せっかくこれまで創造し培ってきた[意味]自体が崩壊してしまう破壊力です。

その発想はなかった、、、あまりにもヤバすぎる!!!

※ 僕はこの現場にいなかったので、この話は妄想でしかないです(歴史の伝承は全てそのようなものともいえますが)

 

この出来事から産まれたのが〝形而上学〟という概念・学問です。

簡単にいえば『有るのに無い』モノゴトに対する探求ですね。
[魂]はもちろん、[神][国(国境)][お金]などは強烈に存在してはいれど本質的には集団幻想でしかないので〝形而上学〟的モノゴトです。
それをいったら[会社]や[夫婦]や[責任]などもそうですね、人間たちの集団幻想によって存在しています。
それをいったら[私の家]などといっても…木や石を組み合わせたものが地球にのっている構成体をそう思い込んでいるだけだとすれば、〝形而上学〟的なものといえます。
それをいったら僕の目の前にある《赤い花》だって……どうでしょう? この花は僕の目の前にもみなさんの脳内にも確かに存在してそうではありますが、本質的には原子の粒の集合体を僕がそう認識しているだけにすぎませんし、それこそ《赤い花》の概念を持たない赤ちゃんにとっては他のものとの区別なんてないわけです…実に曖昧な存在です。

 

 

それを言ったら…『本当にある』モノゴトって何なんでしょう?

どれにしても、何にしても…みんなそれぞれが、そう思い感じているだけの〝形而上学〟的なものなんじゃないでしょうか!?

そうなってしまえば、誰でも認識できる本当に存在するモノゴトといえば…この宇宙と、それを構成している粒くらいなものなのかもしれませんが…それすら本当にあるのか見たこともなく……ひとついえるのは、自分が味わっているこの世界のみが本当に存在する世界では!? というような……

とにかく[言葉]により[意味]を定着させないと、この世の全てはそれぞれの感覚認識にすぎず、全てがあやふやなんです。

だから[言葉]に本質的な[意味]はないけれど、[言葉]こそが[意味]そのものとなるんですね。

それがないと、なにもはじまらない。

 

『はじめに言葉ありき』ということは、そういう意味なのかもしれません。

ちなみに聖書の原文では『言葉』の部分は『ロゴス(logos)』と表記されているそうです。

Wikipediaによると、ロゴスの意味は…

言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、整合、言論、言表、発言、説教、教義、教説、演説、普遍、不変、構造、質問、伝達、文字、文、口、声、ダイモーン、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、事柄そのもの、人間精神、思考内容、思考能力、知性、分別、弁別、神、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮……

、、、もはや意味不明なほどにシンプル、はじめから答えはでている! といいますか……もはや僕らの〝世界観〟を構築する全てがロゴスであるといっていいほどです。

さて、[言葉]は『本来あやふやでしかないニュアンスを固め伝える』ために無くてはならないものだということがみえてきました。

逆に言えば、[言葉]を使わずともそのニュアンスを伝え高度な情報伝達を成しているケースはたくさんありますよね。

画家はその色やカタチで、音楽家はその響きで、ダンサーはその身のこなしで、言葉よりも本質的な情報を伝えたりします。
ビールの美味さを伝えるならば『このクソ暑い昼下がりに、キンキンに冷えた琥珀色の…』と能書きをたれるよりは、グイっと飲んで『プハ~!』とやったその声と表情をみせる方が絶大だったりするように。

確かに、僕は日本語しかしゃべれませんが、世界中を旅して[言葉]で困ったことはほとんどありません。
身振り手振り、声のトーン、目力によって大概のことは伝わるものです。
むしろ本当に伝えたいことの場合は日本語のままほうが伝わるほどです。そりゃそうですよね、怒りや心配、喜びなどの感情をいちいち他言語に変換して表現するより、ありのままをぶつけた方が伝わるのは当然です。
社会的なこと、ビジネス的なやりとりなどはそれなりに大変かもしれませんが、それでも時間をかけて向き合えばなんとかなるはずです。
本気ならば、目的達成のためにより相手と深く疎通できる方向を模索し続けるだけですからね…同一言語でチームワークを組んでいても意思の疎通は難しいんですから、同じこととはおもいますが。

なんせコミュニケーションにおいて、[言葉]を用いるのが最も楽かつ迅速、行き違いが少ないというのはこの社会が証明しています、間違いないです!

 

どちらにしても[言葉]や[数字]メインでコミュニケーションする現行の社会システム…その限界値は必ずくるとおもいます。

この先、言語は地球統一語になってゆき…その先、未来人は[言葉]は使わなくなっていくのでしょう。

長年連れ添った夫婦に[言葉]はいらないように、シンプルに共有共存意識が当たり前となった人類たちに[言葉]はいらないはずです。

〝資本主義競争時代〟を経て〝世界平和時代〟に達している地球人類たちは、共通認識や知識・経験、意識・感覚が現代人よりも格段にアップデートされているでしょうし、テクノロジーにより感覚の共有はより進んでいることでしょう。
目と目で通じ合うだけのような、意識と意識で通じ合うだけのような…愛しあい、感じあい、共生しあうのが当たり前でしかない地球人類にとっては、わざわざ言語で状況を伝える必要もなく、契約し合う必要もなくなってしまうのかもしれません。

そんな〝意識の高い野性〟を持った人類の時代がくるんじゃないかと、楽しみにしています。

 

『はじめに言葉ありき』というならば…『それをいっちゃあお終いよ!』というようなお話でしたが…
いっそ終わりにして、次に進むのもご一興! みたいな気分です。

 

もちろん『〝言葉〟に意味などない!』だなんて僕に言えるわけもありません。
なんせこのコラム自体が[言葉]によってみなさんのもとに届けられているわけで…

僕の綴ったこの[言葉]たちが、少しでもみなさんに響き、意味を持ってくれたならば嬉しいんですから。

 

…実は本当のことをいえば、僕の目の前に《赤い花》なんてなかったんです。

今回もしも、みなさんの脳内に様々な《赤い花》が咲いたとしたら…少なくとも僕の[言葉]には意味があったということでしょう?


 

『言葉に意味はない』ほどに『数字に意味はない』ということでもあり

形而上学的には『この世界は全てあなたの思い込み(幻想)』ということでもあります。

そして科学的にも、それでしかないと証明されているのです!

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