『#お好きにどうぞ』の本質(1)

お好きにどうぞ, 体験談, 工藤シンクの世界, 科学

『#お好きにどうぞ』…それは僕が最も愛する情緒のひとつにして、僕の立ち上げた熊本の次世代型コミュニティ三角エコビレッジ サイハテの合言葉。

サイハテ村はルールやリーダーという設定なく1万坪に30人が暮らし、それぞれが日々やりたいことをやり、その自発的なダイナミズムにより暮らしと発展がまかなわれています。
僕の人生のテーマのひとつは『生きているうちに〝世界平和〟を味わいたい』であり、サイハテ立ち上げのコンセプトもその一端にあります。
持続可能なライフスタイルは当然ながら、発起人としての個人的な想いとしては『ルールやリーダーを定めないコミュニティの実践・実証・伝播』にこそ本質があるともいえます。
[エコビレッジ]は便宜上のカテゴライズみたいなもので、開村当時の2011年にはそのような共同体について一般的に浸透しうる、それに見合う言葉は見当たらなかったのです(今ならあるか? もよくわかりませんが、〝ティール組織〟という概念は一般化されてきました)。

 

さて、〝世界平和〟

個人的には〝世界平和〟といったときには、地球人類は[国]や[法律]などの柵なく、それぞれが自発的に安定的な活動をしているというイメージがあります。
上の画像は僕の描いた[サイハテ マンダラ]ですが、それぞれが個性的に輝いていて、全体がひとつの美しい『安定したカオス』として調和している、まさにそんなイメージで描いたものです。
とどのつまり…僕は世界人類みんなが『#お好きにどうぞ』になってしまったらいいのに! と願っているのです。
(それは間違いなく素晴らしいし、この人類史のゆく果てに…どうせそうなるとも確信してはいますが)

 

とはいえさて、そんな世界は成立するんでしょうか?

なにせやってみないとわからないので…まずはサイハテ村を創り、〝#人間は意識の高い野性であろう〟というテーマを掲げているのがイマココの僕の現状であり、活動の主軸になっているということです。

8年間(2020年現在) サイハテというコミュニティを味わってきて、その確信とメソッド、プロセスは自分なりには蓄積されてきました。
しかしサイハテはまだ30人というコミュニティースケールですから、これが100人、1000人、1億人…75億人となると話は別です。

はたして、75億人による人類総『#お好きにどうぞ』な世界は成立するんでしょうか!?

 

問題なく最高! という人もいるでしょう。

自由にしろといわれても、何をしていいのかわからない人もいるでしょう。

統率のとれない、自分の思い通りにならない、そんな世界に不安を抱く人もいるでしょう。

働く人はいなくなり、犯罪は野放しになるんじゃないか? と懸念を抱く人もいるでしょう。

どうなんでしょう?

 

 

ここで僕が『世界は #お好きにどうぞ で大丈夫だ!』と確信に至った体験をふたつあげておきます。

僕が30歳のとき、とあるスピリチュアルマスターの女性の啓示をうけて、彼女を含んだ13人の老若男女たちとエジプトのシナイ山に向かっていた時のことです。
砂漠をひた走るバスのなかで彼女は僕のとなりにきてこう囁きました。
「シンちゃん、あなたは全てをさらけ出しなさい…」
一瞬、僕は躊躇し、自分自身を全てさらけだすことに怯えを感じました。
そんなことしたら最低の僕が顕になる…誰かを傷つけてしまうかもしれない、誰かのものを盗んだりするかもしれない、女性をレイプしてしまうかもしれない…………と。
しかし次の瞬間、気づきました、、、『あれ? そんなことしないぞ!』 と。
別にルールがあろうがなかろうが、そんなことをしない自分に気づいたのです。
誰かの痛みは自分の痛みに直結する、みんなと幸せでいることが自分の幸せ……野性的にも理性的にもそれを知っているので、そんなことはしないのです。
『僕は全てをさらけだしても大丈夫だ!』…それに気づけたのが、聖書のモーゼの十戒がおろされたシナイ山に向かう道すがら…というところがまた面白いガイダンスでした。

 

もうひとつは、お店もない人口90人の離島、トカラ列島にある諏訪之瀬島での体験。
その島で開催された食と音楽をテーマにしたフェスに参加していたのですが、台風の直撃にあい、帰りのフェリーも欠航…参加者たちは数日間あしどめをくうことになったんです。
台風が去ったあとも、避難所となった公民館では50人ほどの参加者がともに暮らすことになりました。
少なくとも数日は食べていかないといけませんが…なにせお店もない島なので、お金があってもどうにもなりません。
そんななか、島民のみなさんが伊勢海老や夜光貝、大名タケノコなどの地元ではあたりまえにとれる最高の食材を提供してくれ、料理大好き人間たちが最高の料理を振る舞い続けました。
魚を釣ってヒーローになる者もいたし、DJやミュージシャンたちは気がむいたら音楽を奏で、居合わせたマジシャンのマジックショーなども開催されました。
参加していたミュージシャンも料理人たちもみな一流なのですが、それら全てが〝イベント(お仕事)〟からはなれた自発性のなかに興っていたのです。
公民館は避難所どころか最高にハッピーな楽園となったのです。
そうなってくると掃除や皿洗いなども自発的におこるんですよね。
そんななか、公民館全体の窓拭きをしまくっている人がいて…理由は「だって、視界がいいほうがみんな気持ちいいじゃん!」の一言。僕は自発的に掃除をするタイプではなかったので、かなり衝撃をうけました。
参加者たちはもともとフェスに遊びにきているわけですから、みんなそれぞれに遊び、働き、楽しみあい…なにせその数日間はただただ最高でした。
そしてこの体験が『#お好きにどうぞ』なコミュニティーでも大丈夫! という確信をくれました。

  

〝性善説〟ということでもないんですが…そのような体験もあり、僕は基本的には『人間は状況や環境さえ前向きならば、調和を好み、荒んだ行為には至らない生き物だ』と確信しています。
人間は感情の生き物ですから…衣食住が充実していたらなおのこと、環境や文化的な充足までいけたらなおのこと。

人間は環境に持っていかれる生き物です。
『割れ窓理論』というように、ビルの窓ガラスが1枚割れていたらそれが連鎖しビル全体の窓が割られ…ゴミが落ちていたらみながそこにゴミを放る…まわりがケンカばかりしていたらそれが常識に…というような負の連鎖は確かにあります。
やはり大事なのは…先祖より脈々と引き継がれてきた倫理や教育による意識の礎もですが、何より〝前向きなベクトル〟と〝安心〟、そういった感情を醸す環境であり〝空気感〟や〝雰囲気〟であろうとおもいます。
縄文時代は争いもなく長期に安定した時代であったといわれていますが、〝#人間は意識の高い野性であろう〟という観点からも非常に興味深いです。

 

例えばサイハテ村で『#お好きにどうぞ』といったところで、いきなりケンカをする人も、窓ガラスを割りまくる人も、物を盗む人もいません。
それはそうですよね、そもそも日本の倫理教育や法律があるということもありますが、絶景大自然のなか優しい人々で溢れているコミュニティー内において、そんなことをする理由も快楽もないんですから。
そして『#お好きにどうぞ』だからといって他者に不快な行為をする者は…『居づらい』という空気感と因果応報がおこるだけですし、それをみな理解しています。
そもそも開村当初から『#お好きにどうぞ』が醸す空気感の、熊本の辺境の山のうえにある『エコビレッジ』ですから……サイハテ村の住人たちや訪れる方々の人間性はその時点でふるいにかかっているともいえますし、その連鎖が全体の空気感をアップデートし続けているのです。

これが渋谷の街の中での『#お好きにどうぞ!』だったら、どうなるかは僕も計り知れません。

たった今、この瞬間……世界から国境も法律もなくなり、『#お好きにどうぞ!』と宣言されたら、あなたならどうしますか?

 

僕はよく、こんな質問をなげかけます。

『世界75億人が全員自分だったらどうでしょう?』

あなたもいま、そんな世界を想像してみてください。
このこたえは興味深いですよ。
例えばこれまでも「みんなケンカばかりして大変だ」とか「誰も働かず、全滅する」などのこたえがありました。

このこたえはそう…………その人自体の性質そのものなんですよね。

その人が他人に対して威嚇のスタンスにあったり、その人が怠け者だということの顕れです。

では、世界人が全員が僕こと工藤シンクならば? ………僕的には最高ですよ!

僕は自分大好き人間なので、世界人類みんな大好き同士! ということです。
全員が全員を大好き…僕は僕に、より幸せてあってほしい! 尊重しあうしサポートしあうでしょう。

まさに〝世界平和〟じゃないですか。

そんななか、よりよい生活を求める僕がいて、畑に精を出す僕がいて、新しい何かを求め研究熱心な僕もいて、、、ある僕が『月に行きたい』とUFOでもつくりだすならば、ある僕は期待してご飯や掃除などのサポートをし、ある僕たちは必要なパーツづくりの生産に精を出し…みたいなことになっていくでしょう。

もちろん怠け者の僕もいるでしょうが、それもまた〝 #お好きにどうぞ 〟…僕の分までたっぷり怠けてください、大好きな僕自身よ!
僕は楽天的なタイプですが、そんな僕らの行動の危うさをみてリスクを提案するストッパー的な僕もでてくるでしょうね。

『〝菌〟にみる人間世界』のお話と同じで、環境や状況に応じて適材適所の僕が75億人同時進行する世界がビジョンできます。

さすがに75億人の僕らだと、僕の知る由もない僕がたくさん存在することになるでしょうか。
遠く離れたまったく環境の違う僕や、その子孫は…僕とは全く違った僕になっていくのでしょうか………………
そんな想像をめぐらせると、、、

あれ? これってこの世界そのものでしかないんじゃないか? とすら感じてしまいます。

その感覚で眺めれば、世界なんて案外にそんなものなのかもしれませんよね?

 

では、もうひとつ。

『自分がもうひとりいたらいいのに』

そう感じたことはありませんか?

人手が足りないような時、意思の疎通も必要ない自分自身とタッグを組めたら最高でしょう。
魅力的な複数の選択肢を前にしたとき、そのどちらも体験したいとき、、、自分はこっちを味わうから、自分はそっちを味わってくれ! というような気分にもなります。

もっと欲張ってみましょう。

『自分が5人いたらいいのに』

5人もいたらだいぶ心強いです! 仕事ははかどるし、息の合ったバンドだって組めそうですね。
自分はギターを極めるから、もうひとりの自分はドラムを探求してくれ、まかせた! という感じ?

  『自分が100人いたらいいのに』

もう凄いですね、チームワークバッチリな会社だってできます。
でも、さすがに自分だけだと能力に偏りがあるかな? 自分以外の自分たちは、自分たちと差別化した部分をのばし、任せてしまえるようにしたいものです。

では、、、

『自分がもう75億人いたらいいのに!』

もういいですね……はい、それがある意味、この星そのものなんじゃないでしょうか?

自分以外の人たちは、この星で自分以外のことをしてくれている〝仲間〟たちともいえませんか?

『人類みな兄弟』どころか『人類みな自分!』みたいな発想でもいいんじゃないかと、僕は夢想するんです。

『あなたはわたし』…最先端科学のレイヤー違いである量子力学的には『自己と他人は同一』ということが提示されますが、確かに自分以外が自分じゃないなんてのは証明できないのがリアルな科学の領域でもあります。

 

 

そもそも野性の人間としてみたときには、〝性善説〟や〝性悪説〟という尺度すら意味をなさないことでしょう。

僕は現代社会の犯罪のほとんどは〝未熟さ〟と〝抑圧からのカウンター〟によるものだと感じていて、ある側面でそれは『この社会が産んだ歪み』であるとも感じています。
社会には常識やルール、倫理やマナーが満ち溢れていますが…〝野性〟ベースの尺度ならば、その時々の行動原則は実にシンプルなはずです。
[快 / 不快]の感じるまま、〝本能〟や〝感性〟…〝魂〟のおもむくままだとするのならば。
(こちらの記事もご参考に→『快〟〝不快〟だけ! 極限シンプルのススメ』)

そこに人間的な知識・経験による意識の高みが交われば、問題などないし、むしろ問題を問題ともしないポジティブな高みがあるのだと確信しています。

話をもどすならば、そこを追求するのが〝#人間は意識の高い野性であろう〟というテーマなのです。

 

もちろん、定形外で例外的なタイプも存在するのも間違いありません。

常識があてはまらない破天荒な人間、あくまで暴力的な人間、猟奇殺人鬼のような特殊な性癖の人間……そのような一般平均とかけはなれた意識や感性を持つタイプは確かに存在します。
逆にいえばそれはある意味〝天才〟とよばれる領域に近い個性であり、仲間として活かせるならばこんなに心強いタイプはいない! という見方もできます。
人類の歴史を塗り替えてくれ、今の僕らの社会や暮らしを導いてきてくれた偉人たちは…間違いなく破天荒な人間たちなのですから。
そして人間の野性に脈付いた暴力性や猟奇性といった〝何か〟は大なり小なり確実にあり、それはある意味尊重に値するということです。
例えばボクシングというスポーツに善悪が定められないように、闘争本能や暴力性の部分に善悪の尺度をあてはめても意味はなく…猟奇殺人鬼のような性癖も、時が時ならマンモス狩りなどで大活躍していたことでしょう。
先に述べた『犯罪のほとんどは〝未熟さ〟と〝抑圧からのカウンター〟によるもの』という視点もそうですが、そういった特殊な性質もエネルギーのゆきどころさえ的確に見出せるのならば、貴重な個性として存在できるはずだとおもいます。

どちらにしても、人類は『絶滅しないため』に、そのような膨大かつ雑多な性質…多様性をまんべんなく布陣しているのだと確信しています。
[サイハテ曼荼羅]のように。

  

そういうわけで僕は人それぞれの快楽のポント(〝萌えポイント〟)や適性を興味深く観察するようにしているのですが、人間のそれは本当に多種多様です。

新しいことにワクワクするタイプもいれば、怯えるタイプもいる…自発的な人もいれば能動的な人もいる…綺麗好きもいれば汚いほうが落ち着くタイプもいる…
アウトドア派にインドア派…掃除好きに料理好き…車の運転が大好きで何時間でもしていられる人…工場作業みたいな地道な作業にハマるのが大好きな人……みんなが僕にない個性をもっている。
僕もデザインや映像制作といった緻密なクリエイティブが大好きですが、そんな細かな作業はとても無理!という人もたくさんいます。

人それぞれ、状況それぞれ、適材適所で人間たちがハマっているんだな~と感動します。

そう、この世界は完璧だ! とね。

 

 

『#お好きにどうぞ』

…考えてみれば、この世界ははじめから『#お好きにどうぞ』でしかないんですけどね。

この宇宙の、この地球という星のうえに、ただ生きている、、、という野性的な現実においては。
〝国〟も〝法律〟も〝社会〟も〝お金〟も…概念の全てが集団幻想でしかない、、、という現実においては。
ルールに従うも、お好きにしないのも、お好きにできないのも、、、自分のつくる幻想次第、という意味においては。

どう生きるか。
それだけのことですよね。

どうあろうが完璧の最中でしかない、この未熟な世界で、みんなで。

 

そういう意味では…本当のところ、僕にはこの世界はすでに〝世界平和〟の最中だとしか思えないんです。

–  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –  –

◉ 〝国〟も〝法律〟も〝社会〟も〝お金〟も…概念の全てが集団幻想


◉ 法律やルールとかではない尺度として

◉ 結局はこういうことだと

◉ そのような観点からの、僕の教育・子育て

 

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