〝快〟〝不快〟だけ! 極限シンプルのススメ
極限までかみくだいていくならば、人間の尺度は[快]と[不快]のふたつだけ、この二極だけにいきつきます。
極論とはいえ本当にそうですよね、超シンプルです!
生きているからには色々あります、様々な思考・感情・判断・行動が渦巻き…まさに人生いろいろ。
しかし、それらを感覚的に掘り下げていくと……能書きはさておき、そこには[快/不快]の二極とそのせめぎあいしかないことに気づきます。
[食欲][性欲][睡眠欲]などの生理的欲求に紐付く領域は、[快/不快]で簡単に解釈できるとおもいます。
もっと複雑な『安全欲求』『社会的欲求(帰属欲求)』『尊厳欲求(承認欲求)』『自己実現欲求』なども、それらが満たされるときに[快]を味わい、脅かされる時に[不快]を感じるという点にもピンとくるでしょう。
ポイントは、それら[快/不快]は人それぞれ、その時々でちがうということ。
『美味しい』は[快]、しかし満腹になったらそれ以上食べること自体が[不快]になっていくように…
『辛い』が[快]な人『甘い』が[快]な人、『赤』が[快]な人『青』が[快]な人…
『努力』に[快]を見出す人もいれば、その大変さが[不快]な人もいて…
『痛み』は[不快]かといえば、そこに[快]を見出すSMマゾ気質な人もいるように…
『目立つ』のが[快]な人もいれば、『恥ずかしい』のが[不快]な人もいる…さらに『恥ずかしい』に[快]を見出す変態もいたりと。
[快/不快]の尺度は人それぞれ、その時その場で様々。
それぞれに[快]を…変化する幸せを求め続けているだけとすれば、こんなにも千差万別で複雑…かつ人類共通、シンプルで楽な尺度はないじゃないですか。
そこに人間社会の柵があいまり、自分を見失わせ、世界を雑然とさせているような気がしてなりません。
だからこそ、複雑に絡み合う[快/不快]のせめぎあいを見極めていくのは大事ことだとおもいます。
人は繊細さで溢れている[快/不快]の領域を言葉にくくってしまいがちなんですよね。
例えば人生には『音楽が好きだからバンドを組んで、有名になり、大金持ちになりたい。そのためにはギターを買わなければいけないので、なるべく楽で高収入なバイトを探そう』みたいなことがひっきりなしじゃないですか?
それを言葉ではなく[快/不快]だけの尺度にまで落とし込んでいくわけです。
『何をしたくて、何をしたくないのか?』
超シンプルかつ超複雑ですよね!?
そこには超膨大な[快/不快]の尺度が入り乱れているのですから。
ブルースリーの有名な言葉に『Don’t think! Feel.( 考えるな!感じろ。)』というのがあります。
能書きはいらない…雑念なく、感覚を研ぎ澄ませ、直感を信じることでみえてくる世界があります。
左脳的思考は限定的に働きますが、右脳的思考は拡散感覚的に処理するマルチタスクです。
〝マインドフルネス〟の状態ともいえますが、雑味なく本質を捉えることは大事ですね。
「自分の好きなこと、やりたいことがわからない」という悩みはよくききます。
雑念なき[快/不快]の領域で世界をみれば、そんな悩みは存在しません。
「料理が好き」「仕事が好き」「ボランティアが好き」「アーティストになりたい」「お金持ちになりたい」…など色々ありますが、それ自体を好きで目的にする人なんて実はいないですから。
例えば、『本を読むのが好き』という人がいます。
冷静に考えたら、インクが染みた紙をペラペラめくり続け脳に幻想を送るだけの行為なわけです。
それが好きな理由は…知識を増やすのが好きな人、空想の世界に没頭するのが好きな人、『リビングでコーヒーを飲みながらまったり本を読む時間』のような全体性で好きな人もいるし、「インクの匂いが好き」みたいな人もいます。
なぜ「知識を増やす」のが好きなのか?
なぜ「いい大学に入り出世したい」のか?
なぜ「お金持ちになりたい」のか?
お金自体はただの紙切れであり、それ自体が欲しい人なんてまずいませんからね。
僕は、人間それぞれのそういった根源的快楽部分を『萌えポイント』と表現しています。
『畑が好き』という人たちにしてみても、開墾に萌える人、種まきに萌える人、収穫に萌える人、研究に萌える人、大自然でのチームワーク部分に萌える人もいれば、商売に萌える人など、様々な萌えポイントがあります。
自他の萌えポイントが浮き彫りになっていると、それぞれの自発的エネルギー部分を無理なく活かせるようになってくるので、チームワークや人生の成功にも繋がっていくとおもいます。
『Don’t think! Feel.( 考えるな!感じろ。)』です。
直感的に『イマココを生きる』のも素晴らしいですし、長期視野でじっくり計画を練るときにもこの指針は活きてきます。
計画だって自分の味わいたい[快]の全体性がみえてきた時に、そこへ向かうプロセスをじっくり考えたらいいと。
もっといえば、その到達点にこそ真の〝目的〟があるといっても過言ではないはずです。
そのために発生する[不快]は[快]へむかう必要なプロセスかもしれませんし、排除することも可能です。
そうしたときにこのシンプルな指針は揺るぎなく、間違いのないものであり…そこが明確になると、どんなことがあっても悩みや迷いもなくなっていきます。
〝真の目的〟がみえてくるわけですから。
どちらにしても[快]はその都度変化を続けるものですから、その時その場で柔軟に感じ、考えるしかないんですけどね。
つまりは計画も、目的自体すらも、変幻自在でしかなくなる。
[快]を味わうための、到達するためのプロセスなんて他種多様なんですし、目的は…〝真の到達点〟はいつだってひとつなのかもしれません。
なんとも大変で、なんとも気楽なものでしょう……それこそ人生いろいろ。
[快/不快]の二元的かつ多様で縦横無尽な世界…
それを決定づける重要な指針…その領域は、言葉にあてはめるならば〝魂〟が一番近い気がします。
〝魂〟の赴くままに、知識・経験を総動員して判断・行動する。
〝魂〟を信じる…特に日本人はそれを苦手とし、恐れ拒絶する風潮もありますが、僕はこれまでの経験からもそれで何も問題ないと確信していますよ。
『〝魂〟の赴くままに、心身と知識・経験を総動員して判断・行動する。』
〝人間は意識の高い野性であろう〟というのは、言いかえればそういうことなのかもしれません。