〝愛〟のどうでもよさ
今回のテーマは〝愛〟
「でたよ~!」という感じでしょうか?
人類至上のポップワードにしてとりとめなく…結局最後は何でも〝愛〟でまとてしまう、『それをいっちゃあお終いよ!』的なニュアンスがあるのもまた〝愛〟
ならば全てを〝愛〟でまとめ、お終いにしてしまいましょう!
〝愛〟って何なんでしょうね?
〝愛〟という言葉自体に意味などないのかもしれません、[言葉]自体が『意味を投影する記号』であるという意味においては。
(※参照『〝言葉〟の意味と、意味のなさ』)
ならば〝愛〟という言葉に世界の人々は何を投影しているのでしょうか?
言葉のなかでも〝愛〟はこのうえなくポジティブで、様々な情念が投影される至高の器に君臨してとれます。
まさに形而上学の真骨頂、〝神〟などと同じ領域でしょうか。
男女や親子などの無償の関係性や正義・倫理などの高尚な領域に用いられることも多く、燃えるようなロマンチックな情念をも孕み、とはいえそれらを超越した全体性としても語られ…無い物ねだりや手の届かなさすら感じるほどに、燦然と輝いてとれます。
逆の側面、万人のそれらが投影されるからこつかみどころなく、難しくもあるのかもしれません。
ここで僕はこう断言してしまいます。
〝愛〟とは〝認識〟だ! と。
いささか味気ないですね。
やはり〝愛〟には正義や倫理、情やロマンチック、高尚さを感じたいものです。
まずは話を進めてしまいます。
あなたの部屋の壁をよ~く観察してください、そこに小さなシミがあるのを見つけることが出来るでしょう。
あなたはそれに気づき、認識しました。
ここではそれ以上も以下もなく、それが〝愛〟だ! としてしまいます。
そのシミを『汚い』と消そうが、『かわいい』と毎日ウインクしようが、いかなるシミなのかを研究しようが、気にせず放置しようが……感情・判断・行動は様々あれど、それはさておきです。
〝認識〟にはビックバン! レベルの創造力があります。
なぜなら、認識あってこそはじめてモノゴトは存在できるからです。
科学的にみても、噛み砕けばこの宇宙の全ては原子や素粒子などの〝粒〟やエネルギーの運動の渦中ととれるわけで、物体にすら厳密な境界はありません。
それをそう〝認識〟してあげないと、モノゴトは〝それ〟として存在し得ないということですよね。
想像してみてください、産まれたばかりの赤ちゃんがどのような〝世界〟を味わっているのか? 僕らと同じ世界にいるのに、知識や経験が全く無い人間の認識世界は…すべてが溶け合った、ただの〝感覚世界〟なことでしょう。
赤ちゃんの目の前にリンゴを差し出しても、そこに概念的な[リンゴ]は存在しないんです。
極論かもしれませんが『世界は全て自分の幻想(思い込み)である』という観点からみれば、あなたの世界は『全てあなたの〝認識〟』であるということになります。
つまり〝認識〟を〝愛〟とした場合、あなたにとってこの世界の全ては〝愛〟ということになります。
みんないいます『全ては愛だ』と、ビートルズも歌っていました『愛こそ全て』と。
壁のシミの話にもどれば、そのシミはあなたに認識され存在をはじめました。
部屋にきた友達に「このシミ…」と紹介したならば話が盛り上がるかもしれません、「なんだか犬に似てるね」なんて写真がSNSで拡散され世界中に認知されることになるかもしれません、「シミー」なんて名前がつくかもしれませんし、シミーグッズが爆発的な人気になり、ハリウッドのプロデューサーの目にとまり映画化されるかもしれません……
社会現象にまで発展したシミー、しかしマンション管理会社の都合で消さなければいけないことに…世間は賛否両論大きく揺れ動き……あなたは「こんなことになるのなら、シミーを私ひとりで愛でてあげたらよかったんだ」と嘆きつつ、自らシミーを拭き消しその最後を飾るのです………(続く)
………みたいなことは起こり得ますよね、あなたがシミーを〝愛〟したがゆえに。
そして世間がシミーを〝愛〟したがゆえに。
ここで興味深いのは、〝認識〟あろうがなかろうがその壁のシミははじめからあったのですが、あなたや世間の多くが認識したことでシミーは誕生し世間を賑わせる存在にまでなったというところです。
そしてシミー云々に限らずも、認識すればするほどに〝それ〟は解像度を増し、それぞれのなかに存在感を高めるというところです。
そしてなにより、それに対する感情や判断や行動は千差万別、十人十色(75億人75億色)というところです。
そうやって様々な念や事象が巻き起こるのがこの世の常ではありますが…ジャッジするまでもなく、全て〝愛〟ということにしてしまえばどうだろう? というのが、今回の僕のご提案の本質です。
人間はどうしても二元論的な思考をベースに判断する生き物ですし、ジャッジすることによって産まれるエネルギーも素晴らしいものです。
しかしジャッジはいつでも相対的、どちらかが高ければどちらかが低い、どちらかが正義ならはどちらかが悪、逆の立場ならそれは反転…みたいなものです。人それぞれの価値観や設定でしかないとすれば、そこに本質を見いだすのは難しいじゃないですか?
ジャッジすることによりそのモノゴトにラベリングがされ、様々な情念にとらわれ、それ以上の〝認識〟を深めることが阻害されてしまうことも多いですから。
何かに対して怒りや怯えや嫌悪を抱いていても、、、〝認識〟を深め理解していったら許せてしまう、愛着すらわいてしまう、みたいなことはよくありますよね。
僕のオススメのジャッジは、野性的な感覚をベースにしたものです。(参考『人間の尺度は[気持ちいい(快)]と[気持ち悪い(不快)]しかない』)
…ところで〝愛〟って何なんでしょうね?
『愛の反対は無関心』という格言もあります。
情熱的なラテン文化では[愛]と[嫉妬]は同義語的なニュアンスを持っていたりもします。
愛する人に捨てられた激情でその相手を刺す! なんてのも〝愛〟ゆえ、ということ。
好きな人を恨み傷つけるだなんて〝愛〟というより憎悪、執着、むしろ自己愛なんじゃないか? というジャッジにもなりそうですが…怒りや憎しみも関心の深さあってのことですから、それも〝愛〟でしかないということなのでしょう。
野菜を愛し、畑の雑草や害虫を駆除するのも…未熟な野菜を間引いていくのも……〝愛〟
動物保護も…動物園も…害獣駆除も……〝愛〟
お国や家族のために戦地に赴くのも……〝愛〟
『そんなの愛じゃない!』という想いもまた……〝愛〟
無視や無関心をきめこむのだって、関心あってこそのこととすれば〝愛〟といっていいのかもしれません。
人間は『知らないことは、知らないことすら知らない』ものですから…究極の無関心は〝認識〟すらない〝無〟そのものです。
つまりこの世界は全てが〝愛〟であり、僕らは〝愛〟ではないモノゴトは知らないことすら知らないという。
聖書には『はじめに言葉ありき』とありますが、〝言葉〟は概念そのもの、〝認識〟そのもの。
原文では〝言葉〟の部分は〝ロゴス〟です、ロゴスの意味は…
1.言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、言論、言表、発言、説教、教義、教説、演説、普遍、不変、質問、伝達、文字、文、口、声、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、事柄そのもの、人間精神、思考内容、思考能力、知性、分別、神、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮…
2.万物の流転のあいだに存する、調和・統一ある理性法則
……もはや、ですね。
そして色々つじつまも合ってきます。
はじめから世界は、全ては〝認識〟でしか…〝愛〟でしかなかったという!
とはいえ、仏教には『色即是空』というのがあります。
『目に見えるもの、形づくられたものは実体として存在せず、時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体はなく、全てはすなわち「空」である』
つまり全ては〝認識〟でしかなく、そんなものは〝無い〟ということ。
『はじめに言葉ありき』も『色即是空』も真逆なようで、実は同じことですよね。
西洋的世界観と東洋的世界観の違いもここにあるのかもしれません。
(『世界は全て自分の幻想(思い込み)である』で長々と述べたことも、これだけのことが言いたかったのです。)
繰り返しになりますが、結局のところ、科学的にもそうなんです。
この世界(宇宙)は原子や素粒子などの〝粒〟とエネルギーの状態でできており、その運動によって成り立っています。それが〝全て〟というリアル。
音や光もそうであるし、意識や感情、人間や物質もそうであるということ。人間や物質にも厳密な境などないということ。
つまりこのひとつの宇宙にあるエネルギー体として、僕らは全部でひとつともいえるはずなんです。
この世界には様々な学説がありますが、ほとんどの学者たちが『エネルギー保存の法則』だけは絶対だといいます。
だとすればビックバンと共に宇宙がはじまった時から、そのエネルギーは等しいということになるじゃないですか?
つまり、はじめから宇宙はひとつの完璧なエネルギーで調和しつつ動き続けていて、僕らの全ての活動もそのなかにある。
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どんな〝科学的な証明〟もある側面からは否定もできるものですが、どんな科学者も『これだけは絶対だ』とするのが[エネルギー保存の法則]です。 それもそのはずで、科学や物理学が共通の文脈で何かを立証できるのはこのガイドラインがあってこそであり、この絶対的な大前提を否定したら〝科学〟自体が成立しな...
僕らははじめから『ひとつ』でしかない。
あなたはわたし…個にして全…ワンネス……〝愛〟
あれ? ということは…実は〝認識〟こそが愛の正反対とすらいえませんか!?
川から水をすくえば『コップ1杯の水』となるように…壁とシミーが切り離されたように…
本来ひとつでしかないものが〝認識〟によって他と切り分けられて、独立した存在になってしまう。
もはや禅問答……こうなってくると、もはやどうでもいいですね。
ところで〝どうでもいい〟は無関心そのもの、〝愛〟とは反対の言葉でしょうか?
〝どうでもいい〟を『どれでもいい』『なんでもあり』というニュアンスで汲めば、全否定のごときで全肯定、ポジティブやネガティブをも超越した領域ともいえ、もはやそこにジャッジもありませんよね。
むしろ制限なき〝愛〟すら感じる、なかなかなワードじゃないですか!
本当に信じているのであれば…信じるどころかそれすらなく、自分と隔たりすらなくひとつならば…全てが完璧と知っていれば……その領域も大きな〝愛〟っぽいですね。
結局のところ〝愛〟が何かは僕にはわかりませんが…
僕は、生きていくからには知識、経験、感覚…〝認識〟の解像度をみんなで高めあっていきたいという想いに突き動かされています。
認識の解像度は、すなわち自分の〝世界〟の解像度。
自分たちの世界を拡張することは、〝愛〟を拡げていくことともいえると信じているからです。
僕にとってそれこそが、
というテーマに集約されているのです。