はじめに

工藤シンクの世界

熊本にある次世代型コミュニティ〝三角エコビレッジ サイハテ〟発起人、マルチアクセスアーティストの工藤シンクです。

『生きているうちに〝世界平和〟を味わってみたい』

子供の頃からのそんな情熱のもと、サイハテ村を立ち上げ、様々な活動を並行しています。
そうして生き、様々な知識・経験や気づきを得ていくなかで、人生のテーマはこのひとつに集約されてきたのです。

 〝#人間は意識の高い野性であろう〟

(※〝あろう〟の部分は『だろう』という断定と『そあろう』というご提案、ふたつのニュアンスを含ませつつ)

僕はこのテーマを死ぬまで探求していくでしょう。

 

そもそも大前提として、人間もこの地球を生きる〝野性動物〟のひとつであるのは間違いありません。
こんな時代になってなお、人間はお腹が減ったら力がでず、毎日ウンコをし、睡眠が必要で、異性に対してムラムラしちゃう!という摂理に、僕は感動すら覚えます。
そういう意味では数万年前となんら変わらず、です。

普通に野性動物ですよね。

………しかし、断固として人類は野性動物ではありえないのです!

いきなり大前提から覆しましたが、なぜなら、そもそも人類が創造した『野性』という言葉の〝意味〟自体が『人間的コントロールの範疇外』を定義するものだからです。
むしろ人間は『本来のありさま』と自分たちを切り放したときに、その言葉を創造したのですから。

辞書を引いてみましょう。

[野性]
自然のままの本能的な性質。洗練されていない粗野な性質。

(※[野生]という語句もありますが『動植物が自然に山野で育つこと』という定義なので、[野性]を扱います)

 

[野性]とは産まれもっての性質。
用法などをみていくと、暴力などは『野性的』と表現されています。

ところで僕ら人間はそもそも、洗練されていない、野蛮な生き物なのでしょうか?

ライオン、象、ウサギ、ナマケモノ…世界には様々な動物がいますが、その野性は気高く感じられるものもあり、争いをしない種もあります。
人間はどうなんでしょうか?
ライオンっぽい人、象っぽい人、ウサギっぽい人、ナマケモノっぽい人…まさに十人十色、様々なタイプの人間がいます。

僕は『人間ほど多様性に満ちた動物はいない』とおもいます。

野性の動物たちは、雑味なく、本能のまま生きています。
『飛んで火に入る夏の虫』という言葉もありますが、虫たちは「光にむかう!」という本能のもと、火に飛び込み命を落とすほどそれに忠実です。

そうしてみると、人間ほど自分たちをコントロールできる動物はいません。
本性にあらがえる生き物は。

僕はそこにこそ人間の真価を感じますし、そうさせる要素こそが〝意識〟とよばれるものだと考えています。

では、〝意識〟とは何なのでしょう?

また辞書を引いてみます。

 [意識]
起きている状態にあること(覚醒)。または自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと。

 

「起きている」…寝ていないときが意識のある状態、それはそうですね。「覚醒」にはさらなる高次元のニュアンスも感じますね。
「自分の状態、周囲の状況を認識できている」…そのような状態が〝意識〟ある状態というのは理解できますが、では『認識できている』とは?

またまた辞書を引いてみましょう。

 [認識]
物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。

「物事をはっきりと見分け、判断する」!!!
シレっといってのけてますが、これはなかなか深そうなお話ですね。

 

人間は物事を五感でキャッチし、頭脳で判断する生き物ですが…その感度も知識経験も千差万別ですから「はっきり」具合も「判断」も千差万別です。
視力の高低によって視界の「はっきり」具合が違うのは当然ですし、絶対音感など特殊な感覚と判断力で音を「はっきり」見分ける人もいます。嗅覚の鋭い人、味覚に長けた人もいます。
スポーツなども瞬間の「見分け」「判断」が重要となりますが、天性の才能がある人もいれば努力や練習によってそれを得る人もいます。

同じ物事に対してでも、大人や子供、ポジティブな人やネガティブな人、知識・経験、それぞれの環境や常識によって「判断」は大きく違うでしょう。

『コップに半分の水をみてどう感じるか?』はよく用いられる例えですが、それをみて「半分しかない」とおもう人もいれば「十分ある」と判断する人もいる、花に与える人もいれば「美しい」と感じて絵に描く人もいることでしょう……同じ人としても、その時々の状況で判断は変わっていきます。

まさに〝意識〟はその時々、人それぞれ…人間の個性・多様性そのものともいえそうです。
( ※ 最近は脳だけでなく内臓なども思考・判断を促す大きな要素だと判明しましたし、「第六感」や「魂」なんてのも見過ごせませんが、、、ひとまずそれは置いておくとしても!)

[意識が高い][意識が低い]という表現もあります。

それを〝意識〟の定義に照らし合わせるならば『物事をはっきり見分け、判断できる』レベルの高低ということになりますね。
逆に頭でっかちで押し付けがましい、それが鼻につく人たちは『意識高い系』などとよばれて卑下される風潮もありますが…

どちらにしても『意識を高める』ということは認識を高めること。
『認識を高める』ということは、より高レベルに『物事をはっきり見分け、判断する』ということになりますよね。

つまりはより解像度の高い感覚(センス)や、より広範囲な知識・経験があってこそだとおもいます。
その追求はキリがないでしょうし、だからこそ人生は死ぬまで意義深いのではないでしょうか?

 

ところで人間は本能のまま、無意識レベルで高い意識であることはありえないのでしょうか?

それがありえるとするなら…そんな人類社会こそが世界平和っぽいぞ!? とは思いませんか?

だからこそ僕は、このテーマを追求し続けているのです。

 

みなさんとこの終わらない旅を続けていけることを楽しみにしています!

 

 

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