〝発達障害〟を考える

〝発達障害〟などない?

まず、そもそも〝発達障害〟という病気はない、というところから。

〝発達障害〟の診断は医師の問診やアンケートなど心理検査を中心に下され、血液検査や脳波測定、CTスキャンなどの生体的特性からは診断できないそうで、医学的に明確なガイドラインがあるわけでもないそうです。
つまり〝発達障害〟はざっくりとした『そういうタイプ』というカテゴライズやラベリングに過ぎないともいえます。

そういった意味では〝発達障害〟はただの『傾向』や『括り』であり、もちろん病気ではありませんよね。

〝発達障害〟←→〝定型発達〟(?)

〝発達障害〟というラベリングがあるからには、〝それ以外〟の人たちにも呼び名があるんです。

〝定型発達〟…これが『発達障害ではない人』のほうについた名称です。

『定型な発達』、まさに『普通の人たち』。
〝定型発達〟とよばれて「普通でよかった…」と喜びをいだくのか、「普通だなんて…」と嫌悪感を抱くのかは人それぞれでしょうけれど、そこにこそそもそもの〝性質の違い〟がある気さえします

どちらにせよ〝定型発達〟という表現がベースにくるならば、言い方を変えれば〝発達障害〟は〝定形外発達〟ともいえますよね。
ならばただの〝発達〟ではないか? というみかたもできるのではないでしょうか。

『普通と違う』ということこそが、まさに個性や特性そのものなのですから。

そして、どのような個性や特性も、一般的には〝欠落〟とみえるような部分ですらも、視点の違いや扱い方によってはポテンシャルでもあるはずです。
アメリカなどではそれら突出した能力を〝ギフテッド(Gifted)〟といい、天から授かった能力として大切に育み、そのための教育機関も進んでいますし、人材としては一流企業からひっぱりだこだそうです。

もちろん変化し続ける時代性と大多数の平均的基準が『社会常識』である以上、そこからはみだした定形外な者たちは『扱いづらい人』ともなるでしょうし、定形外な者からしたら『生きづらい社会』ともなるかもしれません。
その点においては〝障害〟という表現も確かに適切ですが、障害を持つのが[人]なのか[社会]なのかは土地柄や歴史、結果論でしか語れないものですからジャッジすることもできません。

どちらにしても〝障害〟というワードはネガティヴなイメージに直結していますから、いかがなものかな? とはおもいます。

発達障害を解釈する

個人的には〝発達障害〟と呼ばれるような特性は、『人類75億人が散りばめる個性と多様性のバリエーション』にすぎないと考えています。

人間はどうしても二元論から物事を平面的に考えてしまうものですが、モノゴトは多元的にとらえたほうがより明確となりますから、全てのバランスを球状グラデーションに布陣しているとイメージしてみるといいかもしれません。
もちろん中心には引力ともいえるエネルギーが存在していることもふくめてです。

そのようなバリエーションとグラデーションでみれば、中心にいくに従って平均的で安定感ある世界観が保たれ、きわにいけばいくほど独特な個性が散りばめられているのがみてとれます。
中心界隈はまさに『大多数』であり『常識』を形成しているゾーン、そこから離れるに従って『はみだし者』というような個性がちりばめられている。

ひとりの人間が〝発達障害〟とされるかされないかも非常に曖昧なうえ、〝発達障害〟のなかにもADHDやアスペルガーなどタイプ分けがされ、さらにそのなかでも特性が大きく違いひと括りにできないというのも、そういったことなのだとおもいます。

人類を大きく底上げしてきたのは、いつだって〝定形外〟

僕はこのような個性のバリエーションこそが『人類が絶滅しないでこれた理由』のひとつでもあると考えています。

それは歴史をみれば明白です。
人類史においてリーダーシップを発揮してきた人たち、大発見や大発明をしてきた人たち、大きなイノベーションをおし進めてきた人たちは……いつだって〝定形外〟であり、乱暴にまとめてしまえば〝発達障害〟タイプだからです。

〝定形外〟なタイプを〝発達障害〟とラベリングするのならば、世界の有名人や偉人、著名人たちのほとんどが〝発達障害〟ということにもなってしまいます。
これは〝発達障害〟を過剰評価するということではなく、定型外であるからこそ際立った個性を放つのですし、定形外からしか飛び抜けた偉業は成し得ないという当たり前の側面においてです。

『人類が絶滅しないでこれた理由』としては、なにも偉業やイノベーションに限ったことではありません。
人類は野性動物としてはかなり弱い種ですが、意識を持ち、本能にあらがえ、文明というクリエイティビティーを発揮して生存と栄華を築いてきた珍しい生き物です。
単一の視点や行動のみでは絶滅のリスクも大きいですから、人間の持つ個性の多様性は人類が生き延びてきた理由のなかに大きく作用してきたはずです。

とはいえその〝個性〟が障害だったのか有益だったのかは…やはり『結果論』でしか語れないものです。
偉人や有名人をそうしたらしめるのも結果的には大多数の称賛であり、つまりは〝定型発達〟な人々の称賛あってこそだということは、逆説的にもそうなのです。

もう一度いえば、中心はいつだって『大多数』であり、それらが『常識』を形成しているのですから。

〝定型発達〟と〝発達障害〟の健全なターム

人類の多様性と生存繁栄という観点から、〝定型発達〟タイプと〝発達障害〟タイプのポテンシャルをシンプルに解釈してみました。

ざっくりとですが、こういう捉え方です。

・〝発達障害〟タイプは『創造と破壊に活躍する』特性・性癖タイプ

・〝定型発達〟タイプは『維持に活躍する』特性・性癖タイプ

 

大前提として、この世界は様々な[創造~維持~破壊]のサイクルにあり、その絡み合いにあります。
宇宙的なエネルギーや運動、大自然や人間社会の営みなど、ミクロからマクロまで全てにそのサイクルがみてとれます。

[創造]と[破壊]は変化のターム、少なからず混乱をはらみます。
〝定型〟を大切にするタイプにとっては辛いタームとなるかもしれません。
〝定形外〟なタイプにとっては、萌える要素が満載かもしれません。

『維持』のタームは『変化しない(させない)』ターム、安定期です。
〝定型〟を大切にするタイプにとっては、安心あるタームかもしれません。
〝定形外〟なタイプにとっては、意義すら感じない退屈なタームかもしれません。

これらは『良くも悪くも』であり、然るべきようにそうあるだけのことでしょう。
持続性や新陳代謝の健全性は両立してこそですから。

[維持]のタームに定形外を持ち込むことは拒絶の対象ですし、[創造]と[破壊]のタームに定型を保とうとすることはリスクにすらなります。
とはいえ大多数の人間は基本的には安定を求めますので、〝発達障害〟タイプは基本的には〝障害〟とされてしまうのは仕方のないことなのかもしれません。

社会経済やテクノロジー、気候変動や災害など想定外な変化が多発する現代はどちらかといえば[破壊]と[創造]のタームであり、〝発達障害〟のタームかもしれませんね。

 

最後に

個人的には、人間の多様な個性をラベリングしてかたづけるのはナンセンスだとはおもいます。

〝発達障害〟〝定型発達〟などとタイプを隔てることが必要なケースもありますが、そこばかりにチューニングしても本質を欠いてしまうことになりかねません。

しかし、あえて解釈してみることに意義もあるかと、長々と綴らせてもらいました。

現代社会は成熟前夜の過渡期、そこにはまだ歪みや辛さも伴うかとはおもいますが…全体性やタームをみて適材適所に布陣し活躍することができる、そんな柔軟でキャパのある社会になってほしいと願います。

それぞれの個性を、人類の多様性を、尊重し共生しあえるような世界になったらいいですね。

 

あわせて読みたい

◉ 人類の個性のバリエーションに無駄もなく、完璧であることもみえてきます

関連記事一覧